2008-04-04

http://d.hatena.ne.jp/lacanian/20080105#20080105f1

このblogで触れられているジジェクの”How to Read
Lacan”は鈴木晶さん訳で今月出るようです(ラカンはこう読め!)。ちなみにこのジジェクの著作は原文がhttp://www.lacan.com/blog/files/nov-2007.html から閲覧できます。



岡崎令子さんとの対話でジジェクがその著作に触れていた、ような。気がして印象に残っています。

2008-03-18

マラルメと松浦寿輝の生誕日

今日はマラルメと松浦寿輝の生誕日か。
同じ日だというのをwikipediaで初めて知りました。


Portal:文学 - Wikipedia

1842年 - 詩人のステファヌ・マラルメ、生誕

1954年 - フランス文学者、詩人、小説家、評論家の松浦寿輝、生誕

2008-03-06

 国民社会主義によって虐殺された六百万人の人々、
 他人に対する憎悪と反ユダヤ主義の犠牲になった
 信仰と国籍を問わない数限りないすべての人々、
 その犠牲者の中でももっとも近しい者たちの思い出に

2008-03-05

feuilles氏との軋轢を経て

feuilles氏と決定的な決裂をしてから1ヶ月になる。

特異点へと連なる現象は12月下旬にfeuilles氏の強制的行為から発端したが、深層/真相としては、僕の幼少期からの歪み・捩れの一つの現-象と僕は考える。それを僕はこの1ヶ月絶え間なく考えていた。feuilles氏が書いている文字言語を僕はこの1ヶ月間(最終告知としての氏からのメールを含めて)読んでいないので、あくまで僕の考えるfeuilles氏からの批判に対して僕が応える、という形式で僕は思考を展開していた。端的には「Jacques、貴方は可哀想な人だ」というfeuilles氏の感想を、僕の少年期からの自我形成に即して精神分析的に考察していた。幾重にも捩れて形成された自我であり、それに対する批判的考察も錯綜しており、僕はとても苦しんだ。いまこうして徐々にその一端を書こうと思い立ったのは、たぶん僕なりの救-助を求める願望の顕れであろう。feuilles氏が応答をくれるとは思えないし、氏の書く文字言語を現在の僕は読む意思を有しないが、僕の精神的遍歴と元来の関係が無い氏にそのような力が無いのは明白であるにも関わらず、恐らく僕は氏に救ってほしいと思っているのだろう。それは、氏が「貴方の理想であり嫉妬の対象である貴方の従兄弟にぶつかってみてはいかが?貴方の従兄弟のコピーとして私feuillesに妄想をぶつけられるのは筋違いであり迷惑ですよ」という趣旨の僕への発言とも密接に関わってくるだろう。

それらを、これから、何年掛かるのかは判らないが、徐々に明確化/言語化していきたいと考えている。その際に大きな助けを受けているのは、フロイト-ラカンやデリダであるよりも、岸田秀氏の諸エッセイであり、とりわけ芥川龍之介の自殺へと至る精神構造に対する考察「シニシズムの破綻」である。或いは、近代日本が開国から明治維新を経て帝国主義国家となり、終には原爆投下されるに至った、その精神的メカニズム/プロセスが、僕の自我形成/破綻のメカニズム/プロセスのアナロジーとなるだろう。

2008-02-28

四十九 剥製の白鳥

 彼は最後の力を尽し、彼の自叙伝を書いて見ようとした。

が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐる為だつた。彼はかう云ふ彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。しかし又一面には「誰でも一皮剥(む)いて見れば同じことだ」とも思はずにはゐられなかつた。「詩と真実と」と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自叙伝の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。のみならず文芸上の作品に必しも誰も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――かう云ふ気も彼には働いてゐた。彼はその為に手短かに彼の「詩と真実と」を書いて見ることにした。 彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐(おもむ)ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

     五十 俘(とりこ)
 彼の友だちの一人は発狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」 この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、
 彼はすつかり疲れ切つた揚句(あげく)、ふとラデイゲの臨終の言葉を読み、もう一度神々の笑ひ声を感じた。それは「神の兵卒たちは己(おれ)をつかまへに来る」と云ふ言葉だつた。彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘はうとした。しかしどう云ふ闘ひも肉体的に彼には不可能だつた。「世紀末の悪鬼」は実際彼を虐(さいな)んでゐるのに違ひなかつた。彼は神を力にした中世紀の人々に羨しさを感じた。しかし神を信ずることは――神の愛を信ずることは到底彼には出来なかつた。あのコクトオさへ信じた神を!

     五十一 敗北
 彼はペンを執(と)る手も震へ出した。のみならず涎(よだれ)さへ流れ出した。彼の頭はヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。


(昭和二年六月、遺稿

2008-01-21

Music-Score

自然言語、とりわけフランス語を愛好する僕は不幸だと思う。
Programming-LanguageやMusic-Scoreならば、特定国語に依存せずに世界中の人が使用している。フランス語がフランスという一国家に大きく依存していることは、とても不幸だと考えられる。
その観点から、もう少しMusic-Scoreを学びたい。逆に、Music-Scoreが人間の身体構造、特に2本の手と10本の指に大きく依存している事がつまらなく思える。とすると、Music-ScoreよりもElectronic-Musicに関心を持つべきか。先頃亡くなったStockhausenがElectronic-Musicを探求したのも、そのような動機だったからと思える。演奏者の身体やConditionに依存しない音楽に対する憧憬。