2008-06-22

整理の思想

僕のBlogを多少整理しました。

整理ついでに、以前から書きたいと思っているアイディアを素描すると、
僕が音楽・文学・思想の教育に関して抱いている基本構想は、「効率化→整理」です。

500冊の本に1ページずつ僕にとって価値のある文章があるよりも、
1冊の本に500ページが纏まっている方が500倍効率が良い。

音楽に関しては、CD300枚よりも、僕が価値あるテクニックが1枚に凝縮されている方が良い。それが、僕がピアノ曲に関して望んでいる事です。

インターネット/ブログを利用すると、そうした事が実現できるようになってきており、その観点からは、僕は良い時代に生きていると楽観視しています。

英語・フランス語に関しては、相当にそれが出来てきています。1冊の本・1時間のMP3があれば、それを繰り返し摂取すれば良いのですし、実際にそうしています。日本語なら差異が理解できますが、フランス語を理解できるほどの水準に達していませんから。



脳と皮膚のConditionが悪い・・・


僕はやはり劣悪な人間で、
「自分を変化/改革」するよりも「自分の理想像にコスト配分する」
方が合理的だと思います。

そこで大きな問題となるのは、体育会系の連中のメンタリティであって、

「自分の事は自分でやれ!!」「自分で努力しろ!!」

といったタイプの馬鹿ですね。


吐き気がする。これまでの人生で巨大な被害を受けてきました。現在はあまりそういう人間関係が無いので、幸せです。

Vさんが嫌う「100点」教師などもそういったタイプでしょうね。

もっとグローバルに見ると、以前から議論している「自分の遺伝子を受け継いだ子供を育てる」イデオロギーも、そうです。僕は僕が嫌いなので、自分と違うタイプの人間にコスト負担したいですよ。


何が悲しくて僕みたいな人間を育てなきゃならないのっと(笑)

2008-06-18

ブログも僕はもっと流動的であるべきだと思っています。

僕もはてな以外にgoogleとgooに所有しているのですが、ほとんど機能していないので残念です。

Vさんのブログにコメントすると、必然的に「はてな」に従属してしまう、のが流動性の無さですね。「はてな」では、例えばコメントをRSS取得できないという、巨大な欠陥がある。それを考慮して、「はてな」アンテナから大量に削除しましたし、「はてな」ブログもRSSリーダーから多く削除しています。Vさんがコメント用のブログ=コメントをRSS取得できるブログを作成する意志があれば、僕が作成します。revoluさんも、ああしたコメントを大量に展開するスタイルなのですから、はてな以外にした方が良いと前から思っているのですが、なぜか執着していますね。



生きているのにまた疲れています。

ここ1ヶ月ほどの問題:

自分が愛好してきた文化が、自分にとってどのような価値を持っていたかが見えない

Blind-Testを行って、各コンテンツの価値を確かめるべき

例えば、MP3をランダムに編集して日常的に聴いています


ランダムに選んだ日本語の文章を1ページ読めば、どの程度の教養水準・当該の問題・・・などは判断しうる。それに対して、英語やフランス語を読んだ時には遥かに曖昧になってしまう、という問題です。

音楽に関して言えば、
僕は少年期からピアノ曲が大好きなのですが、聴き慣れた曲以外の曲を音声・楽譜で提示された時に、その曲の特徴/価値を判断する能力がどの程度あるか、を確認していきたいのです。

これは、前衛・実験芸術を扱う際に、とても重要な問題になりますね。単に奇抜で人を驚かすだけなのか、従来の論理を覆す論理性があるのか、という問題。

僕の場合には、数日前に提示したMP3-fileにある、Boulez/Stockhausenらのピアノ曲/室内少人数編成の楽曲が、単なる適当に弾いているだけなのか、それとも調性音楽では不可能で、かつ異質の価値の有る論理に基づいているのか、を説明し得るようにならなければ、それらを愛好しているとは言えない。

2008-04-27

>最近変な人がいなくなったのでコメントしたくなってる今日この頃。(笑)
(実は僕も同じ心情です)(別の某所では僕自身が「変な人」扱いされてますが)

>「時間による淘汰」とは「ヒトが存続する妨げ」を淘汰するのか、「ヒトの存続」が時間により淘汰されるのか、理解できない
普通に文意から判断すると、前者でしょうね。「ヒトがより良く生活できないような妨げは淘汰される」。
でも、
>これほどまでの規模で無駄を背負っている動物はいないと思うが
こうした考えは根本的に誤謬ですよね。つまり、「ヒトは動物ではない」脳の異常発達と、生まれてからの長期間に渉る現実からの乖離によって、人間の意識は現実から離れた所に幻想を作る。
これは精神分析では初歩の初歩だと僕は理解していますし、最近の脳科学でもそうなのでは?
ですから、僕は「ヒトがより良く生活できないような妨げは淘汰される」ことは原理的に不可能であると思っています。「時間を経れば淘汰される→良い方向に進む」といった楽観主義も、僕は否定しています。僕が文学・哲学・音楽の領域で古典と現代を共に参照しながら考察を進めていくのも、そうした発想からです。

人間は言うまでもなく、動物が生存に便利なように自然淘汰されるというダーウィニズムも実際には「ご都合主義」であって、歴史の発展は偶然に決定されている
というのが、僕が関心を持っているフランス系現代思想の基調です。その源泉の一つであるマルクスの『ドイツ・イデオロギー』で駆使される「交通」という概念が典型ですが、歴史は偶然の事件(=交通)が各所で勃発することによって進むが、それが共同体によって必然へと回収される。性交を考えると簡単に理解できますけど、単なる性行為と受精に過ぎない事象が、あたかも或る人間の始原と看做される。僕の好きな概念で言うと、それは「ロンダリング」なのであって、単なる偶然によって自分の存在や活動が基礎づけられるのが許せないという人間のナルシシズムに起因していると思います。インターネットというのはその観点からはとても興味深い。僕のBlogなどは極端に症候的ですが、実際には無数の偶然的な要素を僕は摂取し無数の雑多な発想をするが、他者に提示する面においては異常なまでに「清潔」を心がけている。本音を言うと、あれでもまだまだ「雑」「不潔」に過ぎて、日々不満なのです。僕が言語活動を重視するのも、先述の「ロンダリング」という観点からです。脳内では無数のイメージが渦巻き、雑多な言語使用をしている、だがそれを他者に提示する際には現在行っているように整理された形式に整えようとする。様々な詩人や小説家が現象界を嫌悪して言語による世界を構築しようと試みた事が、僕なりに理解できている状態に現在あると思っています。
単純に言えば、僕の直面する現実社会も部屋も脳内もあまりに乱雑なので、せめて言語やインターネットでは僕の好きなように整理したい、という事です。

Vさんの「チャイコフスキーの交響曲は順を追って自然の美しさから遠ざかって人間臭くなってる気がする。」というのは、その直後のエントリの「自然淘汰」に繋がるのでしょうけど、
そうした発想には美的観点から僕は批判的です。そもそも、「人間くさい」「自然の美しさ」というのは何かが定義されていない。五線譜も楽器も明らかに人工的ですよ。西欧音楽史ではワーグナーにおいて頂点に達しますが、人間の感情を調性音楽によって表現することは、どの条件で可能であるか。人間を意識主体ではなく、要因の偶然的結合体であると考えたニーチェが、西欧主体の意識/感情の放出の頂点としてのワーグナーと終生格闘したのは、先述の観点からは必然的に見えます。
ここ数日でBach, GoldbergのScoreが一挙にUp-loadされましたので、「人間的に見える音楽が、実際には技術的に処理された結果として実現されている」ことを実際の五線譜に沿って考察されてみるのも面白いかと存じます。僕はそこに、例えばAnti-WagnerであったStravinsky, Le sacre du printemps (春の祭典)と同型の発想を見ています。良かったらMusic-Fileを幾つか送信しますよ。
http://d.hatena.ne.jp/Jacques1930/20140601

2008-04-15

『聖ジュネ』

僕のはてなアンテナに登録してある「Portal:文学 - Wikipedia」から、今日がサルトル(1980年)と小説家のジャン・ジュネ(1986年)の死去した日であることを知る。サルトルの伴侶だったボーヴォワールもジュネの前日ぐらいに亡くなったはず。現在、僕の関心の中心付近にサルトルの『聖ジュネ』があるので、幾重にも奇妙な因縁を感じる。
しかし、現在の僕はジュネやクロード・シモンのような、美しく精密な文体を幾重にも重ねることによって戦争や性を描写していく文学に批判的だ。もっと爽やかで軽い事象を、美しく精密な文体で書いていく文学を評価している。具体的には、誰だろう・・・。その評価対象が見つからないのが、現在の僕の大きな不満だ。フランス文学の一つの大きな流れであるボードレール、ランボー、マラルメ、ジュネ、クロード・シモン、いずれの描写対象も、僕には嫌悪感を感じさせる。
以上のような理由で、僕の「はてなダイアリー」に記載させて頂いた「<翻訳開始>農耕詩(冒頭) クロード・シモン 【訳・芳川泰久】」を残念ながら削除させて頂く。

2008-04-11

みんな
死んでしまえばいいのに・・・




知人とのメール交換をGmailで久しぶりに読み直した。
面白かった。まる。

2008-04-10

牛丼すき家

僕の行動範囲に以前に建造された牛丼すき家に、初めて入った。

牛丼を外食する事自体がひさしぶりだったのだが。。。

自分で作った方が遥かにまし。

500円返せ。

2度と行くまい。

2008-04-08

西田幾多郎「フランス哲学についての感想」

(引用者が一部改変の後、抜粋)

 デカルトといえば、合理主義的哲学の元祖である。しかし彼の『省察録』 Meditationesなどを読んでも、すぐ気附くことは、その考え方の直感的なことである。単に概念的論理的でない。
パスカルの語を借りていえば、単に l'esprit de geometrie[幾何学の精神]でなくて、l'esprit de finesse[繊細の精神]というものがあると思う。フランス哲学の特色は後者にある。
 フランス人は感覚的なものによって思索するということができる。感覚的なものの内に深い思想を見るのである。フランス語の「サンス」 sens という語は他の国語に訳し難い意味を有っている。それは「センス」 sense でもない、「ジン」 Sinnでもない。

フランス哲学独得な内感的哲学の基礎はパスカルによって置かれたかに思う。その「心によっての知」 connaissance par coeur は sens intime[内奥感、内密感、内親感]としてメーン・ドゥ・ビランの哲学を構成し、遂にベルグソンの純粋持続にまで到ったと考えることができる。
「センス」でもない「ジン」でもない「サンス」は、一面において内面的と考えられると共に、一面に社会的、常識的とも考えることができる。概念に制約せられない直感である。それは自己自身を表現する実在、歴史的実在に対する「サンス」である。

(引用者注:↑はよく理解できない)

(略)

 フランス哲学で合理主義といっても、単に概念的でない。デカルトが clare et distincte[明晰判明]という所に、既に視覚的なものがある。

2008-04-04

http://d.hatena.ne.jp/lacanian/20080105#20080105f1

このblogで触れられているジジェクの”How to Read
Lacan”は鈴木晶さん訳で今月出るようです(ラカンはこう読め!)。ちなみにこのジジェクの著作は原文がhttp://www.lacan.com/blog/files/nov-2007.html から閲覧できます。



岡崎令子さんとの対話でジジェクがその著作に触れていた、ような。気がして印象に残っています。

2008-03-18

マラルメと松浦寿輝の生誕日

今日はマラルメと松浦寿輝の生誕日か。
同じ日だというのをwikipediaで初めて知りました。


Portal:文学 - Wikipedia

1842年 - 詩人のステファヌ・マラルメ、生誕

1954年 - フランス文学者、詩人、小説家、評論家の松浦寿輝、生誕

2008-03-06

 国民社会主義によって虐殺された六百万人の人々、
 他人に対する憎悪と反ユダヤ主義の犠牲になった
 信仰と国籍を問わない数限りないすべての人々、
 その犠牲者の中でももっとも近しい者たちの思い出に

2008-03-05

feuilles氏との軋轢を経て

feuilles氏と決定的な決裂をしてから1ヶ月になる。

特異点へと連なる現象は12月下旬にfeuilles氏の強制的行為から発端したが、深層/真相としては、僕の幼少期からの歪み・捩れの一つの現-象と僕は考える。それを僕はこの1ヶ月絶え間なく考えていた。feuilles氏が書いている文字言語を僕はこの1ヶ月間(最終告知としての氏からのメールを含めて)読んでいないので、あくまで僕の考えるfeuilles氏からの批判に対して僕が応える、という形式で僕は思考を展開していた。端的には「Jacques、貴方は可哀想な人だ」というfeuilles氏の感想を、僕の少年期からの自我形成に即して精神分析的に考察していた。幾重にも捩れて形成された自我であり、それに対する批判的考察も錯綜しており、僕はとても苦しんだ。いまこうして徐々にその一端を書こうと思い立ったのは、たぶん僕なりの救-助を求める願望の顕れであろう。feuilles氏が応答をくれるとは思えないし、氏の書く文字言語を現在の僕は読む意思を有しないが、僕の精神的遍歴と元来の関係が無い氏にそのような力が無いのは明白であるにも関わらず、恐らく僕は氏に救ってほしいと思っているのだろう。それは、氏が「貴方の理想であり嫉妬の対象である貴方の従兄弟にぶつかってみてはいかが?貴方の従兄弟のコピーとして私feuillesに妄想をぶつけられるのは筋違いであり迷惑ですよ」という趣旨の僕への発言とも密接に関わってくるだろう。

それらを、これから、何年掛かるのかは判らないが、徐々に明確化/言語化していきたいと考えている。その際に大きな助けを受けているのは、フロイト-ラカンやデリダであるよりも、岸田秀氏の諸エッセイであり、とりわけ芥川龍之介の自殺へと至る精神構造に対する考察「シニシズムの破綻」である。或いは、近代日本が開国から明治維新を経て帝国主義国家となり、終には原爆投下されるに至った、その精神的メカニズム/プロセスが、僕の自我形成/破綻のメカニズム/プロセスのアナロジーとなるだろう。

2008-02-28

四十九 剥製の白鳥

 彼は最後の力を尽し、彼の自叙伝を書いて見ようとした。

が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐる為だつた。彼はかう云ふ彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。しかし又一面には「誰でも一皮剥(む)いて見れば同じことだ」とも思はずにはゐられなかつた。「詩と真実と」と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自叙伝の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。のみならず文芸上の作品に必しも誰も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――かう云ふ気も彼には働いてゐた。彼はその為に手短かに彼の「詩と真実と」を書いて見ることにした。 彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐(おもむ)ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

     五十 俘(とりこ)
 彼の友だちの一人は発狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」 この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、
 彼はすつかり疲れ切つた揚句(あげく)、ふとラデイゲの臨終の言葉を読み、もう一度神々の笑ひ声を感じた。それは「神の兵卒たちは己(おれ)をつかまへに来る」と云ふ言葉だつた。彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘はうとした。しかしどう云ふ闘ひも肉体的に彼には不可能だつた。「世紀末の悪鬼」は実際彼を虐(さいな)んでゐるのに違ひなかつた。彼は神を力にした中世紀の人々に羨しさを感じた。しかし神を信ずることは――神の愛を信ずることは到底彼には出来なかつた。あのコクトオさへ信じた神を!

     五十一 敗北
 彼はペンを執(と)る手も震へ出した。のみならず涎(よだれ)さへ流れ出した。彼の頭はヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。


(昭和二年六月、遺稿

2008-01-21

Music-Score

自然言語、とりわけフランス語を愛好する僕は不幸だと思う。
Programming-LanguageやMusic-Scoreならば、特定国語に依存せずに世界中の人が使用している。フランス語がフランスという一国家に大きく依存していることは、とても不幸だと考えられる。
その観点から、もう少しMusic-Scoreを学びたい。逆に、Music-Scoreが人間の身体構造、特に2本の手と10本の指に大きく依存している事がつまらなく思える。とすると、Music-ScoreよりもElectronic-Musicに関心を持つべきか。先頃亡くなったStockhausenがElectronic-Musicを探求したのも、そのような動機だったからと思える。演奏者の身体やConditionに依存しない音楽に対する憧憬。

2008-01-11

天麩羅チェーンのてんやでSuicaが利用可能に

[Business Media 誠]

Restaurant「RoyalHost」系列の

天丼チェーンの「てんや」が、全店舗でSuicaを導入する。
街ナカの飲食チェーンにおける全店舗規模のSuica導入はこれが初となる。
駅ビル内やショッピングセンター内の一部店舗ではSuicaを導入していたが、1月23日より順次、

  • 「天丼てんや」
  • 「天ぷらてんや」
  • 「てんやおじさんの天麩羅屋台」
  • 「とんかつおりべ」

全店舗(約126店舗)
でSuicaを導入する。

プログラム

日本英文学会

例会プログラム

開催日 2008年1月12日(土)
開催場所 青山学院大学青山キャンパス
*第1室 11号館1123
【シンポジウム】12:30~14:30


  • 「自伝/ライフライティング研究に何ができるか?」
    講師 遠藤不比人(首都大学東京准教授)
    桑瀬章二郎(立教大学准教授・仏文学)
    吉田恭子(慶應義塾大学助教)
    司会 中井亜佐子(一橋大学准教授)