>最近変な人がいなくなったのでコメントしたくなってる今日この頃。(笑)
(実は僕も同じ心情です)(別の某所では僕自身が「変な人」扱いされてますが)
>「時間による淘汰」とは「ヒトが存続する妨げ」を淘汰するのか、「ヒトの存続」が時間により淘汰されるのか、理解できない
普通に文意から判断すると、前者でしょうね。「ヒトがより良く生活できないような妨げは淘汰される」。
でも、
>これほどまでの規模で無駄を背負っている動物はいないと思うが
こうした考えは根本的に誤謬ですよね。つまり、「ヒトは動物ではない」脳の異常発達と、生まれてからの長期間に渉る現実からの乖離によって、人間の意識は現実から離れた所に幻想を作る。
これは精神分析では初歩の初歩だと僕は理解していますし、最近の脳科学でもそうなのでは?
ですから、僕は「ヒトがより良く生活できないような妨げは淘汰される」ことは原理的に不可能であると思っています。「時間を経れば淘汰される→良い方向に進む」といった楽観主義も、僕は否定しています。僕が文学・哲学・音楽の領域で古典と現代を共に参照しながら考察を進めていくのも、そうした発想からです。
人間は言うまでもなく、動物が生存に便利なように自然淘汰されるというダーウィニズムも実際には「ご都合主義」であって、歴史の発展は偶然に決定されている
というのが、僕が関心を持っているフランス系現代思想の基調です。その源泉の一つであるマルクスの『ドイツ・イデオロギー』で駆使される「交通」という概念が典型ですが、歴史は偶然の事件(=交通)が各所で勃発することによって進むが、それが共同体によって必然へと回収される。性交を考えると簡単に理解できますけど、単なる性行為と受精に過ぎない事象が、あたかも或る人間の始原と看做される。僕の好きな概念で言うと、それは「ロンダリング」なのであって、単なる偶然によって自分の存在や活動が基礎づけられるのが許せないという人間のナルシシズムに起因していると思います。インターネットというのはその観点からはとても興味深い。僕のBlogなどは極端に症候的ですが、実際には無数の偶然的な要素を僕は摂取し無数の雑多な発想をするが、他者に提示する面においては異常なまでに「清潔」を心がけている。本音を言うと、あれでもまだまだ「雑」「不潔」に過ぎて、日々不満なのです。僕が言語活動を重視するのも、先述の「ロンダリング」という観点からです。脳内では無数のイメージが渦巻き、雑多な言語使用をしている、だがそれを他者に提示する際には現在行っているように整理された形式に整えようとする。様々な詩人や小説家が現象界を嫌悪して言語による世界を構築しようと試みた事が、僕なりに理解できている状態に現在あると思っています。
単純に言えば、僕の直面する現実社会も部屋も脳内もあまりに乱雑なので、せめて言語やインターネットでは僕の好きなように整理したい、という事です。
Vさんの「チャイコフスキーの交響曲は順を追って自然の美しさから遠ざかって人間臭くなってる気がする。」というのは、その直後のエントリの「自然淘汰」に繋がるのでしょうけど、
そうした発想には美的観点から僕は批判的です。そもそも、「人間くさい」「自然の美しさ」というのは何かが定義されていない。五線譜も楽器も明らかに人工的ですよ。西欧音楽史ではワーグナーにおいて頂点に達しますが、人間の感情を調性音楽によって表現することは、どの条件で可能であるか。人間を意識主体ではなく、要因の偶然的結合体であると考えたニーチェが、西欧主体の意識/感情の放出の頂点としてのワーグナーと終生格闘したのは、先述の観点からは必然的に見えます。
ここ数日でBach, GoldbergのScoreが一挙にUp-loadされましたので、「人間的に見える音楽が、実際には技術的に処理された結果として実現されている」ことを実際の五線譜に沿って考察されてみるのも面白いかと存じます。僕はそこに、例えばAnti-WagnerであったStravinsky, Le sacre du printemps (春の祭典)と同型の発想を見ています。良かったらMusic-Fileを幾つか送信しますよ。
http://d.hatena.ne.jp/Jacques1930/20140601
2008-04-27
2008-04-15
『聖ジュネ』
僕のはてなアンテナに登録してある「Portal:文学 - Wikipedia」から、今日がサルトル(1980年)と小説家のジャン・ジュネ(1986年)の死去した日であることを知る。サルトルの伴侶だったボーヴォワールもジュネの前日ぐらいに亡くなったはず。現在、僕の関心の中心付近にサルトルの『聖ジュネ』があるので、幾重にも奇妙な因縁を感じる。
しかし、現在の僕はジュネやクロード・シモンのような、美しく精密な文体を幾重にも重ねることによって戦争や性を描写していく文学に批判的だ。もっと爽やかで軽い事象を、美しく精密な文体で書いていく文学を評価している。具体的には、誰だろう・・・。その評価対象が見つからないのが、現在の僕の大きな不満だ。フランス文学の一つの大きな流れであるボードレール、ランボー、マラルメ、ジュネ、クロード・シモン、いずれの描写対象も、僕には嫌悪感を感じさせる。
以上のような理由で、僕の「はてなダイアリー」に記載させて頂いた「<翻訳開始>農耕詩(冒頭) クロード・シモン 【訳・芳川泰久】」を残念ながら削除させて頂く。
しかし、現在の僕はジュネやクロード・シモンのような、美しく精密な文体を幾重にも重ねることによって戦争や性を描写していく文学に批判的だ。もっと爽やかで軽い事象を、美しく精密な文体で書いていく文学を評価している。具体的には、誰だろう・・・。その評価対象が見つからないのが、現在の僕の大きな不満だ。フランス文学の一つの大きな流れであるボードレール、ランボー、マラルメ、ジュネ、クロード・シモン、いずれの描写対象も、僕には嫌悪感を感じさせる。
以上のような理由で、僕の「はてなダイアリー」に記載させて頂いた「<翻訳開始>農耕詩(冒頭) クロード・シモン 【訳・芳川泰久】」を残念ながら削除させて頂く。
2008-04-10
2008-04-08
西田幾多郎「フランス哲学についての感想」
(引用者が一部改変の後、抜粋)
デカルトといえば、合理主義的哲学の元祖である。しかし彼の『省察録』 Meditationesなどを読んでも、すぐ気附くことは、その考え方の直感的なことである。単に概念的論理的でない。
パスカルの語を借りていえば、単に l'esprit de geometrie[幾何学の精神]でなくて、l'esprit de finesse[繊細の精神]というものがあると思う。フランス哲学の特色は後者にある。
フランス人は感覚的なものによって思索するということができる。感覚的なものの内に深い思想を見るのである。フランス語の「サンス」 sens という語は他の国語に訳し難い意味を有っている。それは「センス」 sense でもない、「ジン」 Sinnでもない。
フランス哲学独得な内感的哲学の基礎はパスカルによって置かれたかに思う。その「心によっての知」 connaissance par coeur は sens intime[内奥感、内密感、内親感]としてメーン・ドゥ・ビランの哲学を構成し、遂にベルグソンの純粋持続にまで到ったと考えることができる。
「センス」でもない「ジン」でもない「サンス」は、一面において内面的と考えられると共に、一面に社会的、常識的とも考えることができる。概念に制約せられない直感である。それは自己自身を表現する実在、歴史的実在に対する「サンス」である。
(引用者注:↑はよく理解できない)
(略)
フランス哲学で合理主義といっても、単に概念的でない。デカルトが clare et distincte[明晰判明]という所に、既に視覚的なものがある。
デカルトといえば、合理主義的哲学の元祖である。しかし彼の『省察録』 Meditationesなどを読んでも、すぐ気附くことは、その考え方の直感的なことである。単に概念的論理的でない。
パスカルの語を借りていえば、単に l'esprit de geometrie[幾何学の精神]でなくて、l'esprit de finesse[繊細の精神]というものがあると思う。フランス哲学の特色は後者にある。
フランス人は感覚的なものによって思索するということができる。感覚的なものの内に深い思想を見るのである。フランス語の「サンス」 sens という語は他の国語に訳し難い意味を有っている。それは「センス」 sense でもない、「ジン」 Sinnでもない。
フランス哲学独得な内感的哲学の基礎はパスカルによって置かれたかに思う。その「心によっての知」 connaissance par coeur は sens intime[内奥感、内密感、内親感]としてメーン・ドゥ・ビランの哲学を構成し、遂にベルグソンの純粋持続にまで到ったと考えることができる。
「センス」でもない「ジン」でもない「サンス」は、一面において内面的と考えられると共に、一面に社会的、常識的とも考えることができる。概念に制約せられない直感である。それは自己自身を表現する実在、歴史的実在に対する「サンス」である。
(引用者注:↑はよく理解できない)
(略)
フランス哲学で合理主義といっても、単に概念的でない。デカルトが clare et distincte[明晰判明]という所に、既に視覚的なものがある。
2008-04-04
http://d.hatena.ne.jp/lacanian/20080105#20080105f1
岡崎令子さんとの対話でジジェクがその著作に触れていた、ような。気がして印象に残っています。
このblogで触れられているジジェクの”How to Read
Lacan”は鈴木晶さん訳で今月出るようです(ラカンはこう読め!)。ちなみにこのジジェクの著作は原文がhttp://www.lacan.com/blog/files/nov-2007.html から閲覧できます。
岡崎令子さんとの対話でジジェクがその著作に触れていた、ような。気がして印象に残っています。
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